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相模の鷹取山・高取山


大磯町国府の風水での原点となる、鷹取山について調べました。神奈川県には鷹取山、
高取山が多く見られ、風水と関係があるのか否か不思議な結果が出ました。

相模の鷹取山、高取山
 六っつの「たかとりやま」が相模にはありました。
 1)六所神社の北方2.5kmにある高さ219mの高取山
 2)伊勢原にある三宮 比々多神社の西2.7kmにある556mの高取山。
 3)藤野から北東の2.6kmほどにある475m鷹取山。
 4)宮ケ瀬湖東にある仏果山から1km北東の680m高取山。
 5)同じく仏果山南東5kmにある522mの高取山。
 6)横須賀市湘南鷹取の鷹取小学校西700mにある91mの鷹取山

 
衛星写真にプロットしますと、ひとつは南北の方向に並んでいるように見えます。
もうひとつは、南東方向にむいて並んでいるように見えます。
しかも配置の中心部に高取山があり、周辺部は鷹取山になっています。
六所神社の真東には、腰越の小動神社を経て横須賀の鷹取山があります。
これらの鷹取山・高取山は偶然ではなく、何らかの意思に基づいて付けられた名前では
ないかと思います。なぜなら横須賀の鷹取山、国府の鷹取山から富士に連なる壮大な
直線となっています。
   
井上赳夫著「日本古代文明の謎」では、日本武尊が東征した際に「タカ」型地名を
経路に残したとあります。高天原系民族統治のしるしと推定しています。
当時、酒匂川、相模川下流域は海が内陸まで来ていたので、日本武尊が足柄峠を越えて
山伝いに伊勢原付近に来て、いったん南に向かい、暖かい国府の地で冬を過ごしたのでは
とも取れます。
山の配置は高取山から鷹取山の方向に進んだベクトルも表しているのではと考えます。
遠征当時、無名の山は多数あって、動くことの無い山は遠征の経路を残すにもっとも
良い方法だったのではと思います。
南に向かった日本武尊は走水から木更津に渡りました。命名や測量もしながらの、
大遠征だったと思います。
日本武尊が木更津に渡った日は春、木更津の対岸から振り返ると富士に日が沈む
4月8日ではないかと考えていました。桜も咲く良い季節だからです。
驚くことに、その後4月8日は日本武尊の命日ということを知りました。
東征を終え病に倒れた尊は最後の力を振り絞って、弟橘姫の入水の日に
みまかったのです。なんという愛、なんという意志、なんという神であろう。