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この書は「たかとり山」に託されていた神武東征と日本武尊東征の足跡をたどり、日本建国の謎を解き明かしていった報告書です。また隈なく日本を巡り建国の心と、感動を探し求めた時空の旅の書でもあります。 | ||
東征が綿密な計画のもとに日本を隈なく言向けした旅だったことが見えてきます。日に向かう熱い心も見えてきます。そして青雲の先に「ひのもとの大倭」は建てられたのです。 後半の日本武尊遠征においても「たかとり山」のベクトルを使用していて、一連の建国の事業と認識していたことが分かります。出発して程なく焼津で火難に遭遇します。倭媛よりいただいた草薙剣と火打石で難を逃れたと記紀は記しますが、このできごとを大尾山と神尾山に託して、その場所を指し残していたのです。 この東征がどのルートで何処まで北上したかは大きな関心事ですが、記紀は東北でのことをほとんど記していません。この足跡を追うと吉備武彦や大伴武日など副将軍と力をあわせ、隈なく東国を巡っていたことが見えてきます。そしてこの東征最大の収穫は、「日本国」の認識を得たことでした。若き日に九州の果てまでを旅して今、東国の隅々まで巡りその領域の大きさを知りました。そして美しい山河を知り、生活する人々を知った、日本武尊なればこその認識を東征最後の地で得ました。この認識が確かに日本武尊によるものだったことを、このベクトルの中に発見したのです。 日本武尊は伊吹山の戦いで敵の矢を脚に受け、彷徨の末ついに能褒野に倒れます。その最後の地に日本武尊の愛の証を見つけました。走水から東京湾を渡る最中、嵐に見舞われて妃の弟橘媛が嵐を鎮めるために身を投じています。その弟橘媛を心から愛していたのです。死に直面し、こんな方法で愛の証を残した人を今だかって知りません。 記紀などの古書でなく、遺跡から見つかる遺物でもなく第三の資料として山名に託した建国の足跡に、古代人の英知を知ることでしょう。 |