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権現とは仏が形を代えて日本の神として現れた姿を言うそうな。それでは権現山は日本の神々の誰を指し示して
いるのでしょう。神武東征・日本武尊東征と関係しているように思われるので調べてみました。奈良より西は
神武東征における経路、東は日本武尊東征と関係のある経路が見えてきました。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
下図は九州島内の権現山を結んだものです。神武兄弟は現在の高千穂町の高千穂神社に集合し、
筑紫に向かっています。図の朝倉で、時の大王・豊受大神に東征の開始を確認しに行ったものと思われます。 その後、図のように西九州各地を巡って、
大隅半島の肝付に戻っています。東征の開始を触れ回って、これへの参加を
呼びかけたものと思われます。南九州で戦いの準備をして美々津を出発し、北九州(竺紫)に進んでいます。 この経路は記紀が記す出発と合致します。 これまでの記録は九州出発の状況がよくわかり、また記紀の記録と矛盾がありません。 記紀の記録がすべてでないことがよくわかります。 下図、下関海峡を渡った後の移動経路です。まず出雲に向かっていますが、三瓶山麓で方向転換し安芸を経て四国に渡っています。 これは、高城山で記録した東征の戦闘部隊の経路と似ています。戦闘部隊を指揮する神武ですから当然のことですが、突然に戦いが生じて 万一にも命を落とさないよう、万全の警護の中での移動が見て取れます。 立ち寄り地として日本書記は安芸国の埃宮(安芸高田市)に、
古事記は阿岐国の多祁理宮(広島県府中町)に寄ったと記しているが、記紀の記述から瀬戸内海を船で進んだと読めることから、安芸秋高田市の埃宮を
府中町の多家神社を同一視する向きもある。地図経路は両方に立ち寄れる経路となっています。四国の西に記した侏儒は魏志倭人伝が記す、「女王国の東、千余里を渡海するとまた国がある。みな倭種である。また侏儒の国がその南にある。人の丈は三・四尺。女王国を去ること四千余里である。」 の侏儒国比定地です。一方、日本書記も神武東征の中で「高尾張邑に土蜘蛛がいて、その人態は身丈が短く、 手足が長かった。侏儒に似ていた。」と記しています。東征の途上で侏儒に出会ったことを記していて、 経路上に侏儒を比定できたことと、侏儒国の状況が合致しました。 その後、しまなみ海道で吉備に渡り山陰に戻る経路や、丹後に向かったのち河内の戦いを経て和歌山に向かう経路は、 やはり戦闘部隊と同じです。和歌山の先の熊野山越えを省略しているのは、記紀に詳しく記録したためでしょうか。それとも、 その後の山中では権現山の名づけができなかったため、記紀に詳しく記したのでしょうか。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
権現岳・権現森
東国の権現山 次図は東国の権現山の分布図です。福井県の権現山から、東が該当します。青森県、北海道にはありません。 日本武尊東征の足跡と仮定して検討しましたが、山中深くの権現山なども多く、比定することができませんでした。副将軍4人と共に
東国を隈なく遠征しているので、青森に権現山が無いことも納得できない分布です。今のところ謎の権現山となっています。
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