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卑弥呼亡き後、卑弥呼の宗女、台与なるもの十三歳をたてて王とした。この魏志倭
人伝が記す台与こそ、倭国日本の新時代を開いた豊受大神こと、稲荷の神です。 上記の一文を納得したうえで理解するには、卑弥呼共立の経緯や卑弥呼と台与の宗女 と呼ばれる血縁関係を知る必要があります。天照大神は伊邪那岐・伊邪那美の長女で、 天照大神の弟・須佐之男の娘が豊受大神と知れば理解は早いでしょう。(下図右参照) 伊邪那美岐の名は倭国統一の記録 豊受大神の系譜
![]() 卑弥呼(天照大神)共立の経緯 上左図の伊邪那岐・伊邪那美に使用される伊邪那美岐の五文字は、魏志倭人伝に登場 するクニ名や有力比定地名から、一文字づつ採った名であることが分かります。クニの 代表欄の神名は古事記が冒頭に記す、「別天つ神五柱」を記載順に当てたものです。 伊邪那美岐の文字順はクニの格順と思われます。 この表と古事記の記述から、見えてきたことは次の通りです。 ●クニ代表の神々は、魏志倭人伝が記す倭国乱を収束するため、話し合ったメンバーと 思われます。 ●倭国乱は伊都国・邪馬台国・一支国等の連合国と、奴国・不弥国連合の戦いで、伊都 国側優勢の中での話し合いだったと思われます。 ●会合の開催は、二人の産巣日(むすひの)神による提案だったと考えられ、会合場所は 「海の中道」の先にある志賀島の志賀海神社です。会合があった実年代は、「霊帝光 和」の終わり184年頃と考えました。産巣日には、日の神を産んだ意があるのでしょ う。 ●話し合いは伊都国宗家の男子、後の伊邪那岐命と奴国王の娘、後の伊邪那美命を結婚 させ、その長子を統一倭国の王とすることでまとまりました。 二人の国生み活動の中で生まれた天照大神が、話し合いの通り倭国初代の天王となり ました。卑弥呼共立の経緯で、古事記と魏志倭人伝は内容が一致します。 台与をたてた経緯 天照大神が亡くなり国中乱れるなか、出雲から和久産巣日神が十三歳の娘、台与を連 れて九州の高天原にやってきました。 阿波、吉備そして出雲の国生みを生きてきた、和久産巣日神の国を思う心に高天原の 人々は、心動かされたものと思われます。無実の罪で父・迦具土神を伊邪那岐に殺され たことも、またこれを恨むことなく、分銅型土器で伊邪那美の記憶を留める活動をして いたことも高天原は知っていました。 そんななかで和久産巣日神は、須佐之男の娘・擁立による、この先の国づくり戦略を 提案したものと考えます。神武東征の結果からその内容を考えてみます。 1)高天原を「東の方の国の中心地」に遷して、新しい国を造るには周到な準備が必要 で、これまでのような準備のない男王を立てても達成できない。 2)台与に他国の建国の歴史での失敗や、国際情勢、文字、測量技術などあらゆること を学ばせて、東国を十分に調査したうえで問題点の対策を練って、東征する必要が ある。 3)高天原をクニの中心に置いただけでは、何もできない。倭人のいない日高見や蝦夷 の国にも倭人を送り豊かな国にしなければ、高天原は支えられない。 4)また出雲国が協力しなければ、移住部隊が通過することも困難である。未だ達成で きない出雲国譲りである。須佐之男の娘である台与を大王にすることで、倭国は一 体にになることができる。 5)30歳を東征の開始と置けば、17年の準備期間がある。高天原を国の中心に置くま で7年、移住がほぼ完了するまで20年、台与50歳までの長期計画とする。新しい 王には鵜茅草葦不合命の子の中から選んで、台与の大王位を委譲する。 台与の健康や人となり、大王になったとしての国づくりへの考えなど、あらゆる 検討が何日も行われたであろうことは容易に想像できます。そして、和久産巣日神の提案 に掛け大倭建国はスタートしたのです。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 稲荷山の分布図 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
豊受大神による大倭建国 二代目天王となった台与は、あらゆる教育を受け、成人すると倭国の人々の悲願で あった、大倭の中央へ遷都の準備に入ります。そして、多くの人々の東国移住による、 稲作による豊かな国づくりを目指します。その合言葉が「稲荷」の造語だったと思わ れます。 東征では、五つの部隊を組織しています。権現山隊、東征本隊、戦闘部隊、補給部 隊、御魂運搬部隊です。東征本隊と戦闘部隊は神武の権現山隊が指揮したと思われま す。補給部隊と御魂運搬部隊は豊受大神が指揮を執ったのでしょう。 下図の稲荷山の経路は、豊受大神の東征の際の移動経路です。実際は、九州朝倉の 高天原がスタートですが、安来生まれの豊受大神は、あえて故郷の出雲を出発地にし ています。
豊受大神は、出雲から吉備を経て徳島に
向かいました。始めに高越山にある伊邪那
美の陵を詣で、辰砂が出土する若杉山に出
向いた経路です。熊野では天照大神の名の
もとに神武の熊野山越えを支援しています。
熊野から遷都先の畝傍山を経て伏見稲荷ま
での直線を記録しています。
宇陀の高倉山で、神武に先祖の御魂を託し天王の位も譲ると、東国移住の人達を激 励するため、大いなる巡礼の旅に出ました。北陸を北上し津軽半島から北海道に渡り 国後島の東端に稲荷山を残します。千島列島における倭国の境として、択捉島に祖父が 名付けた大山を確認に行ったのです。 帰還の旅では、この稲荷山から富士山への直線を残しています。国後島や択捉島が、 富士山と同じ倭国の領域だと記録したのです。 ![]() ![]() ここでの歴史研究の方法 歴史研究にいろいろな方法論がある中、ここでは仮説演繹法の手順で、神武東征を考 古遺跡により検証してきました。 日本の同名同種の山分布に、古代の記録があることを見つけ、その中の記録の一つで ある神武東征の経路を仮説としました。この仮説で弥生終末期の遺跡の墳墓遺構や庄内 式土器・同併行期土器などの形状変化や移動状況が説明できるか検証しました。 また神武東征の経路順に、各県の遺跡発掘報告書に報告されている出土物を、仮説で、 すべて説明が可能か検証しています。説明が矛盾したり、納得できなければこの同名山 による記録は誤りとしたのです。 そして各県の遺跡発掘結果を矛盾なく、同名山で記録された神武東征で、説明できる ことが分かりました。 |