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 神武東征の補給部隊の経路だった、高塚山


 高塚山は神武東征における、後方支援を行う補給部隊の経路を記録した、山であることが分かりました。 塚の文字を用いたのは、東征の中で倒れたならば、我々が塚をつくり手厚く葬る意味と考えました。
 高塚山の分布図

 下図は補給部隊の経路で、九州では朝倉の高天原に近い日田から南に向かった経路です。御魂運搬部隊を 警護したものと思われます。薩摩半島では邇邇芸命の可愛山陵から屋久島の高塚山に伸びています。縄文杉や大王杉の近くに 高塚山があることから、この大木に当時の人の熱い思いが託されているものと思います。

 九州から出雲まで、豊受大神の御魂運搬 等を支援し、出雲からは補給部隊となった のでしょう。部隊としての経路は、稲荷山 の経路と同じく出雲から始まっています。 豊受大神の指揮下にあったことが分かりま す。
 稲荷山の経路と同じく、熊野に迂回して 熊野山越えをしたのち、宇陀から宇治で終 わっています。

 
 
No名前所在地付近の地名標高m緯度経度
1高塚山鹿児島県熊毛郡屋久島町楠川 付近1396N30/21/53E130/31/60
2高塚山鹿児島県薩摩郡さつま町白男川 付近350N31/54/11E130/24/06
3高塚山熊本県人吉市生地屋町 付近624N32/09/13E130/43/57
4高塚山熊本県球磨郡五木村下梶原 付近1508N32/25/09E130/56/42
5高塚山宮崎県児湯郡木城町中之又 付近987N32/18/17E131/19/19
6高塚山宮崎県東臼杵郡椎葉村大河内 付近1290N32/23/48E131/08/20
7高塚山大分県日田市前津江町赤石 付近726N33/12/41E130/56/57
8高塚山大分県日田市鶴河内 付近620N33/25/42E130/55/01
9高塚山大分県竹田市久住町有氏 付近1587N33/06/22E131/17/35
10高塚山島根県安来市荒島町 付近49N35/26/05E133/12/20
11高塚山鳥取県西伯郡南部町鶴田 付近301N35/20/24E133/25/11
12高塚山兵庫県小野市黒川町 付近125N34/51/12E134/57/59
13高塚山兵庫県神戸市垂水区多聞町 付近190N34/40/33E135/03/59
14高塚山兵庫県川辺郡猪名川町柴合 付近146N34/54/05E135/22/58
15高塚山大阪府和泉市春木川町 付近341N34/23/28E135/27/45
16高塚山和歌山県和歌山市栄谷 付近172N34/16/01E135/09/46
17高塚山和歌山県東牟婁郡那智勝浦町小阪 付近255N33/38/07E135/51/52
18高塚山奈良県宇陀郡曽爾村長野 付近671N34/29/52E136/05/44
19高塚山三重県名張市葛尾 付近530N34/39/09E136/02/58
20高塚山京都府城陽市市辺 付近202N34/49/56E135/50/05
21高塚山京都府京都市伏見区醍醐北端山 付近485N34/57/37E135/50/14
22高塚山静岡県浜松市天竜区春野町長蔵寺 付近660N34/58/41E137/56/45
23高塚山静岡県浜松市天竜区春野町川上 付近1621N35/06/56E138/00/13
24高塚山静岡県周智郡森町三倉 付近496N34/54/23E137/55/44
25高塚山千葉県南房総市千倉町大川 付近216N34/56/15E139/56/25
26高塚山千葉県夷隅郡大多喜町大戸 付近120N35/14/43E140/21/26
27高塚山福島県郡山市熱海町安子島 付近816N37/28/33E140/13/48
28高塚山福島県双葉郡川内村上川内 付近1066N37/21/00E140/42/55
29高塚山石川県羽咋郡志賀町尊保 付近161N37/10/49E136/45/53
30高塚山石川県輪島市門前町浦上 付近240N37/17/47E136/48/34


 古墳時代への道
 豊受大神は、東征の中で倒れた人を手厚く葬るための、塚や共献土器の検討を続けていま した。この新しい墳墓構想を、実現していく部隊が補給部隊の、高塚山隊です。
 下関海峡を渡り一年目の越冬をした山口から、あらゆる改革が始まります。弥生墳丘墓と 呼ばれる、山の端を方形の台状に整えた墳墓が登場してきます。墳墓に供献する複合口縁壺 も山口からです。新しい時代の土師器も山口からのスタートでした。

 翌春、山口から出雲に進んだ豊受大神は、生まれ里の安来の丘陵地帯を、しばらくの駐屯 地と定め、四隅突出型墳丘墓を造成します。方形台状墓の四隅を突出させたものです。予想 される倉敷での戦いで倒れた人を葬るためのもので、台状としたのは複数の土壙を設置でき るためと、勇敢に戦った人を讃える意味もあったのでしょう。
 出雲での戦いの準備が整うまで、戦闘部隊は安芸を経て四国に遠征していたので、豊受大 神は四国徳島に向かいます。途中、備中と高松で双方中円墳を築造します。高松ではさらに 墳墓への葺石も試行しています。また、最初の前方後円墳や前方後方墳も讃岐で試作されま す。

 古墳時代は自然発生したのだ無く、東征の中での豊受大神の活動の結果であることが分か ります。
 東北の古墳訪ねると、ほとんどの前方後方墳が山端に、前方後円墳より先に築造されてい ます。これは豊受大神が、原野を開拓指揮した東国移住の集団の長に与えた褒美と考えまし た。その山瑞の墳墓からは、開拓を行った田んぼが見わたせて、葬られた人の想いが伝わっ てきました。
 長野や関東北部に見られる、将軍塚と呼ばれる前方後円墳は、豊受大神が東国の巡礼から 帰還し、奈良に戻って東国移住の状況を神武に報告した際、まだ奈良の都づくりに残ってい た部隊を、丸ごと長野や関東北部に送り出す方法として、将軍に前方後円墳を墳墓とするこ との許しを出した結果と考えました。部隊の大きさなどに応じて、前方後円墳の大きさを対 応させた規格が生まれたのはこの時と思われます。