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伊邪那美岐が明かす国生み



 この書は「伊邪那岐・伊邪那美」名の意味が解けたことをきっかけに、国生みの足跡をたどり、日本国創生の100年を解き明かしていった報告書です。
 
  内容の紹介
 伊邪那岐(いざなぎ)・伊邪那美(いざなみ)の名前は、魏志倭人伝に登場するクニ名から1文字ずつ採った、名であることを見つけました


 この名は「別(こと)天つ神五柱」の神々による話し合いで決められたもので、古事記と日本書紀は、ここから記録を始めていました。弥生後期、約100年間おける日本国創生のスタートだったのです。



 第1部は、神々の「この漂へる国を修(おさ)め理(つく)り固(かた)め成(な)せ。」の命に従って伊邪那岐命と伊邪那美命が、「国生み」という名の開拓に向かった報告です。

 倭国でつづいた、戦乱を収束させるため、二人の神が立ち上がります。そして「別天つ神五柱」による七日七夜の話し合いの末、伊都国王家の男子と、敵として戦った奴国の王女が呼び出され、海の向こうに新しい国づくりを命じられたのです。
若い二人は失敗を重ねながらも、谷を拓き、島を拓いて穀物を植え、すでにやってきていた人達をも励まし、懸命の努力をしました。海山で活躍した人に綿津見神・山津見神の称号を与えます。家を作る人、鉄を作る人、土器を作る人、水を分ける人、さまざまな分野で活躍する人に神の称号を与え、子らへの技術伝播を図ったのです。
 悲劇は突然に起きました。伊邪那美命が新しい開拓地で事故に遭い、亡くなってしまいます。駆けつけた伊邪那岐命は、最愛の妻の悲劇に生きる力を失くします。それでもウジが湧く伊邪那美命の姿を見て、弱虫の心を跳ねのけ驚くべき再起の道を進むのです。この「国生み」を後の海神・龍王こと豊玉彦命が、大地に記録していました。
 伊邪那岐命・伊邪那美命の子の天照大御神(卑弥呼)を、統一倭国王に供立することは、神々の会合の中で決まっていたことです。天照大御神が目指した国づくりが、「うしはくの国」でなく「しらす国」であったことが、覆ることのなかった日本の歴史の根源にあったことに気づきます。 また卑弥呼亡き後、台与(豊受大神)をたて国中は定まったと記します。13歳の少女にどんな力が秘められていたのでしょう。

 第2部は、高天原を追われ出雲に降った須佐之男命が、オロチ退治をおこない、大国主命が国譲りするまでの謎解きです。。
開拓の中で生まれた須佐之男命は、母、伊邪那美命の死に遭遇し、泣き虫ながらも母親思いの成長を遂げます。しかし、須佐之男命・大国主命が目指した国づくりは「うしはくの国」だったのです。「しらす国」を目指す高天原の「国譲り」要求に屈し、ついに建御名方神の諏訪への敗走で、終りを迎えます。

 第3部は、「日本武尊東征隊は、北海道に渡っていた。」という仮説をたて、検証の旅をした報告です。旅の中から見つけたものは、渡島半島にある松倉山三山が指し示す東北の山々です。そして日本最大の地上絵で残した、北に向かう東征隊の熱き心でした。