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日本建国の出発地点とその経路の発見(1)


神武東征に参加した勢力と集合地点 (下図参照)
   

  三方からトライアングルに向かっていることが分かります。
 1) 鹿島、吉野ヶ里方面からの参加した勢力(図中ベクトルD1-D2)
 2) 八女、瀬高、大牟田方面から参加した勢力(図中ベクトルE1-E2)
 3) 小国、九重方面からも参加しているように読み取れます。(図中ベクトルF1-F2)

 このトライアングルT2の高天原に集合して、倭国連合となったのではないでしょうか。 ここは、邪馬台国の有力候補地です。
 トライアングルT1の扇状地奥には、天照大御神を祀る美奈宜神社があります。高木村と甘木、杷木の中間に位置する原でもあります。「たかあまがはら」と関係するのだろうか。    
   

謎のトライアングルT1(下図参照)
 どの高取山からどの鷹取山にベクトルを結ぶかあいまいな高取山が山鹿市にあります。このベクトルを利用すると、籾山西面に小さなトライアングルが生まれます。意識したトライアングルでしょうか?単なる設定の誤差でしょうか?誤差としますと、これらのベクトル誤差は500m程度と読み取れます。    

東征隊は二手に分かれて出発した。(下図参照)A4版地図

 緑色のベクトルが参加勢力の集合地点で、出発地点に当たります。紫色のベクトルが、日本建国の遠征隊の経路と考えました。古事記では、高千穂の宮で兄五瀬命と末弟の若御毛沼命(後の神武天皇)が相談して日向から出発したことになっています。本隊・五瀬命は直接小倉の方面に向かい 分隊の若御毛沼命は都城方面に向かい、九州東岸を制圧あるいは地神たちに詣でて、統合を果たしながら北上したのではないでしょうか。
 五瀬命は奈良にはいる戦いで亡くなられたことから、若御毛沼命の遠征隊を中心に東征が伝承されて古事記の記述になったと考えます。
   

東征隊は、出雲・四国・丹波に遠征していた(下図参照)
 安芸の多ケ理の宮に七年居られたと古事記に記されていますが、出雲への遠征、四国への遠征と大変な遠征を行っていたようです。七年かかっても不思議ではないと思います。
 吉備の高島の宮に八年居られたことになっています。その先の播磨から丹波への遠征が難航したためと思われます。丹波には多くの古墳がありこの戦いで幾多の犠牲があったのかも知れません。あるいは、四国南部遠征の隊がもどり合流するための期間だったのでしょうか。
 大和付近には二つの高取山が見つかりました。五条市と高取町で古事記にある熊野からのベクトルがありません。
 五条市の高取山は御所に入る道筋なので大和に入るベクトルかもしれません。対の鷹取山が見つかるとはっきりすると思います。高取城のある高取町の高取山も 大和に入るベクトルかも知れませんが、ここでは日本武尊の東征の出発地点としました。

なぜ高取山・鷹取山なのか
 高は高天原の高で、鷹は鷹のような鋭い爪をもち、全国を鳥のように駆け巡り、国取して建国を果たさんとする意思がこの「たかとりやま」にこめられていると思います。